カテゴリー「歴史地域」の記事

2011-01-21

報徳二宮神社

二宮金次郎(尊徳)が祀られている神社は 現日光市今市の下今市駅から徒歩3分のところにありました。

二宮金次郎さんが 栃木県二宮町の復興に尽力された後 今市に移られましたが
安政三年(1856)今市報徳役所内で70歳の生涯を閉じられました。

http://momo217.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-d81b.html

上記↑は二宮金次郎さんの記事です葬儀は同年10月23日に夕刻より如来寺でとり行われ、葬列は報徳役所から如来寺まで続き大通りを埋めるほど盛大なものだっといいます。

ご遺体は、 如来寺境内(現在の報徳二宮神社境内)に埋葬されました。

遺言で
「余を葬るに分を越ゆることなかれ、墓石を立てることなかれ。」と言われ
当初はその遺言どおりに墓石はなかったのですが その後多くの人から墓碑建立の要望があったため 三年後に現在の地に墓碑が建立されました。

没後150年以上経った現在でも、尊徳翁のご遺体が安置された当時のままです。

生涯を世のため人のために尽くされた有名な二宮金次郎さんは 生まれ故郷からはるか遠い この少々地味な今市で眠っていらっしゃるんですね。

余談ですが 今市は日光杉並木があるため花粉症の人が多いと聞いています。
当時も花粉症はあったのかしら・・

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2010-02-18

日本最古の足利学校

足利市の足利学校

日本最古の学校と言われる足利学校の創建は 奈良時代 平安時代 鎌倉時代などの説があります。
鎌倉建長寺の住持の 玉隠永興は 1487年の詩文に
「足利の学校には諸国から学徒が集まり学問に励み それに感化されて 野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ 足利はまことに風雅の一都会である」といっています。

又1550年には フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして 最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されています。
学徒は三千とも言われていますが 江戸時代末期には役割を終え 明治5年幕をおろしました。

どんな人が学んだのでしょう?
学生は全国から集まり 沖縄出身の人もいたという記録があります。
大半は僧侶で 僧侶以外の人には僧侶の学徒名がつけられました。
校長先生は当時のトップレベルにあった学問僧でした。

校則は?
上杉憲実が定めた「学規三条」が校則で 「規則を守らない学生 不熱心な学生は在校を許さない 又入学に際して僧侶の身分になる」とされています。

学費は?
学費を払った記録はなく 逆に学校側が食事と宿舎を提供していたという記録があります。

授業の内容や時間割は?
孔子の教えに基づく儒学を中心に易学や 戦国時代には兵学も学びました。
時間割はなく 中国の古い本を教科書とし それを書き移して学んでいました。

何年で卒業?
自学自習だったので学びたい学問が終わったら帰って行きました。
長い人は10年以上 短い人は1日だったようです。

現在の建物は平成2年に 史跡足利学校跡保存整備事業により江戸中期の姿に蘇りました。(足利学校の歴史より)を参考にさせて頂きました

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2009-09-18

旧谷中村遺跡

久し振りに渡良瀬遊水地の旧谷中村跡をたずねました。

足尾銅山鉱毒事件として日本初の公害訴訟が起きたところです。

明治の初期まで 谷中村は大変豊かな土地でしたが 明治10年頃から 足尾銅山より流出した鉱毒が当地を流れる渡良瀬川を汚染し 田畑や魚に多大な被害を及ぼしました。

当時の栃木県佐野市出身の国会議員田中正造は 議会に銅山の操業停止を要求し天皇にも直訴し 村民と共にながきにわたって戦いましたが  政府は 原因は洪水にあるとして遊水地設置を決めました。

結局谷中村は48万円で買収され380戸2500人が集団移住しました。
明治46年 最後まで残っていた16戸の住民家屋を強制破壊し 100人余りが雨露に晒されることになりましたが 大正6年2月限り すべての村民が各町村や北海道へ移住し谷中村は名実共に滅亡しました。

現在は渡良瀬遊水地として見渡す限りの貯水池谷中湖と雄大なヨシ原になっています。

栃木県 埼玉県 茨城県 群馬県の四県にまたがる日本最大の遊水地です。

葦は一部はヨシズになり 残りは三月にヨシ焼きが行われ 今では春の風物詩として多くの見物人とカメラマンで賑わいます栃木県藤岡町役場にある田中正造像は渡良瀬遊水地の方を向いています。

所々に旧住民の屋敷跡の杭がヨシ原の中にあり当時の谷中村を偲ばせます谷中村跡に残る荒れた墓地・・彼岸花が咲いていました渡良瀬遊水地でしか見られない花で「ワタラセツリフネソウ」と名づけられました。

広大な谷中湖や遊水地内を流れる川で見かけたダイサギなど 渡良瀬遊水地は野鳥が多く200種類以上・・冬にはヨシ原をねぐらにするチュウヒなどが見られバードウオッチングや野鳥撮りの人も多くなります。

又 富士山 浅間山 日光男体山 筑波山と四方八方が見渡せ 朝焼け夕焼けが美しくカメラマンには大変人気です。

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2009-05-04

田山花袋の旧住居

作家の田山花袋は館林の元秋元藩士の家に生まれましたが父は明治10年西南戦争で戦死・・・明治11年から19年の8年間をこの家で過ごし勉学に励んだといわれています。

この家は明治維新前の武家屋敷で 永久保存するため 後方600メートルより解体移築されたものです。

新緑に囲まれた雰囲気の良いところにありました。
自然主義作家として代表作に「田舎教師」がありますね。

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2009-02-09

二宮金次郎さんてどんな人?

昔 学校に二宮金次郎さんの銅像がありましたが何時の間にか見かけなくなりましたね。

二宮金次郎さんは 37歳から62歳まで 現静岡の小田原藩の飛び地だった ここ栃木県の二宮町(昔は桜町といいました)に家族で移り住み荒地だった農村の復興にとりかかりました。

二宮町に 金次郎さんの桜町陣屋跡や資料館があり 訪ねたのは今回で三度目です。
 
資料館の方が詳しく説明してくださり その話と頂いた資料をもとに 少々長くなりますが 私なりに纏めました。

あの薪を背負って本を読んでいた金次郎さん・・いったいどんな人だったのでしょう。

栃木に来られる前は?
現小田原市の栢山(かやま)のわりと裕福な農家の長男として生まれました。
お父さんは人が良くて 困った人にはお金やお米を貸したり 又学問好きで本を読み金次郎にも教えました。

5歳の時酒匂川の洪水で田畑が流失し それがもとで父が病気になってしまいます。
金次郎は12歳から父の代わりとなって堤防工事に出かけますが 仕事が半人前なのでそれを補うためにワラジを作って村人達にあげたり 又売ったりしてお父さんに大好きなお酒を買ってあげました。

14歳の時お父さんは亡くなり16歳の時お母さんも亡くなってしまいます。
金次郎は叔父の家に引き取られ 弟二人はお母さんの実家に引き取られ離れ離れになりました。

金次郎は朝早くから働き 夜は行灯の灯りで本を読んでいると「百姓に学問はいらない油が勿体無い」としかられます。
そこで友人から一握りの菜種を貰い土手に植えたら7升の菜種が取れ それを油にかえて貰い夜の読書を続けました。

18歳になった金次郎は叔父さんの家を出て いくつかの家で働いたり 日雇いでお金を貯め少しずつ田畑を買い戻していきました。

20歳の時古く壊れかけた生家を修理し 田畑を買い増やして 31歳の時には約3.8ヘクタールの大地主になりました。

金次郎の噂を聞いた小田原藩家老は 窮ししていた財政の建て直しを頼みました。
金次郎は5年計画をたて 一切口出しさせないように主人に約束させ 無駄をなくし 贅沢を避け 効率の良い薪の焚き方まで教え 節約した分だけ金次郎が買い取りました。

又働き易い環境を整えたり お金を必要としている人には少しずつ出し合って貸し出す「五常講」のしくみをつくりました。

31歳の時キノ19歳と結婚しますが 仕事中心でなかなか家にも帰れず生まれた子供も死んでしまい離婚をします。
32歳の時小田原藩のお殿様 大久保忠真公より農家の手本として表彰されます。

34歳の時若い波子16歳と再婚します。
歳は大きく違いますが波子はとてもしっかりものだったそうで 35歳の時長男弥太郎が産まれます。

36歳の時お殿様は金次郎を高く評価し武士に取り立てられますが 飛び地で荒地で凶作だった現栃木県二宮町の復興を命ぜられます。
最初は断っていましたが 困った人達の役に立てるのならと 37歳で自分の田畑も家も売り払って家族三人で桜町陣屋に住み復興にとりかかります。
復興に先立ち 桜町領の領主宇津家と 10年間はすべて金次郎に任せる いちいち報告しなくても良い などの約束を交わします。

ここから桜町での猛烈な復興が始まります。
良く働く農民には表彰したり 褒美に農具などを与え 収穫を増やすために生活面の指導もします。
又水を確保する為 堰ゃ堀をつくり 働き易くするため橋や道路をつくり 水はけの悪い畑は掘り下げて田にし 凶作時に備え食べ物も確保しました。

借金や病気で生活の苦しい村人には米やお金を与え 農民が家を建て直したり屋根を直したりする時にもお金を与え 小さな子供のいる家にはお金や米を与え人口増加策をとりました。

エピソード
木の根堀り老人
荒地の開墾に来た老人が皆の嫌がる木の根堀を続けたのを見て沢山のご褒美をあげました。

壊れた便所
金次郎の使者が間違ってある男の便所を壊してしまいました。
金次郎は便所の他に家も直してあげたら 怠け者だった男は良く働くようになりました。

円蔵の家
新しい家を建てるのに金を借りに来た円蔵は金次郎に諭され 借りたつもりで村の復興の為に積み立てさせ 復興後村で一番大きな家を建ててあげました。

成田山で断食
文政2年45歳の時 金次郎に反感を持つ一部の人達の妨げで 仕法が思うように進まず悩んでいた金次郎は姿を消し成田山で21日間の断食をして帰ってきました。
その後は村人の気持ちも一つに纏まり復興は順調に進みました。

ナスで大飢饉を予測
天保4年の初夏 金次郎はナスを食べて秋味がしたことから冷害が起こり作物が育たなく食物が足りなくなる事を予測して 農民達に稗(ひえ)を作らせたので 1人の餓死者も出ず 他の村にも食べ物を送ってあげました。
(この天保の大飢饉では全国で10万人以上の餓死者が出ました。)

復興が始まって15年後には 米も約2倍に お金も127両が207両に増えました。

二宮尊徳の教え
至誠・・・まごころ・・尊徳さんの考え方や仕法生き方の中心になっています。
勤労・・・働く事の大切さ 人は働く事によって向上する。
分度・・・自分の置かれた立場や状況をわきまえ 収入に応じた生活をすることが大切。
推譲・・・将来に向けて余ったお金を貯めておいたり又他人や社会の為に譲る。
積小為大・・・小さな努力を積み重ねていけば大きな収穫や発展に結びつく。
一円融合・・・お互い働き合い一体となって結果が出るという教え。 植物も水 温度 土 養分などが溶け合い一つになって育つ。

復興の依頼は栃木県のみならず茨城県まで60箇所にも及びこれらを成し遂げました。
その後日光市の今市の復興を命じられ 赴任しましたが体調を崩し翌年70歳で今市で亡くなりました。

長男弥太郎・・・父尊徳さんと共に働きました。
長女文子・・・秘書兼経理担当を努めましたが 29歳で結婚後30歳でお産の時に文子も子供も死んでしまいます。
金次郎さんは182センチの昔にしては大男だったとの事。
現在のように定年もなく最後まで働かれたのですね。 
金次郎さんの子孫の尊志(たかし)さんは神戸にお住まいで校長先生を退職されたとか・・資料館の方のお話でした。

長くなりましたが最後までお読み頂き有難うございましたconfident
資料館から頂いた「二宮金次郎(尊徳)と桜町陣屋跡」を参考にさせて頂きました。

陣屋跡 資料館内も撮影はOKです。

http://momo217.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-3d82.html

上記URL↑は 二宮尊徳さんのお墓のある 日光市今市の二宮神社です

二宮尊徳住居
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2009-01-30

水戸黄門の西山荘

以前から一度行って見たかった常陸太田の西山荘へ袋田の滝を見た後 寄ってみました。

静かなところで聞こえるのは 野鳥と風の音のみです。

解説によりますと 
水戸光圀公は30歳頃に歴史の編集所を作り 34歳で水戸藩主になり45歳には編集所を移転して彰考館と名づけ 全国から学者を集め又その人達を九州のはずれから青森の果てまで派遣して資料を集めさせ 大日本史をはじめ多くの著書が生み出されました。

元禄3年(赤穂義士討ち入り事件の12年前頃・・)63歳になって家督を3代綱條に譲り 江戸城を後に 大日本史編纂事業に生涯を捧げるべく 西山荘に移り棲まれました。

元禄13年12月に西山荘の寝室で亡くなられるまでの10年間は 編纂の傍ら多くの領民と親交を重ねられ 人々から黄門様と慕われました。

西山荘は黄門様の死後も藩主により大切に守られてきましたが 残念ながら野火で消失し その後8代藩主斎修公によって再建され今日に至っています。

テレビで見る黄門様は日本全国を行脚されたように作られていますが 実際には御領地内だけを回られたと聞いています。
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付き上げ御門(表門)・・・周囲の木立に合わせて黄門さま自らが考案された簡素な門で 昼は扉を突き上げておきます

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観月山より・・・中秋の名月には観月の宴を開き詩歌の会など催し 大日本史編纂に努めた家臣の労をねぎらわれました。
熊笹に囲まれた小さな丘でした。

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2008-12-04

足尾銅山

先日巡礼の時にお友達になった友人を足尾銅山に案内しました。

約400年間にわたり掘った坑道は1234キロメートルで東京~博多間に相当します。

銅山観光はトロッコに乗って坑道へ入り暗いところに降ろされました。
「帰りは待ってて頂けるんですか?」
「いいえ後は矢印に従って見物して歩いて外へ出てきてください」
という訳で坑道を見て周りました。

昔この足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川を汚染して魚や作物に被害を及ぼしました。

現在の渡良瀬遊水地も 明治の頃まで豊かな谷中村でしたが 鉱毒に汚染され 当時の国会議員田中正造と共に村民が訴訟を起こし 公害訴訟の原点になった話は有名です。

足尾の山は煙害で草木が生えないのですが ボランティアによって植え付けがされ少しずつ緑が蘇っているという事でした。

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2006-09-08

昭和の岩窟王の墓

今日は元ボランティアの仲良し5人組と食事会でした。

まだ夕食には早いと云う事で当地出身の友人が「昭和の岩窟王」のお墓へ案内してくれました。
この話は私も知っていて当地のお方だという事も知っていましたが場所までは知りませんでした。

吉田石松翁は大正2年強盗の罪で逮捕されましたが以来50年間無実を訴え続けました。昭和38年やっと無罪が確定し「昭和の岩窟王」と当時随分話題になりました。

当地に戻られましたが緊張の糸が切れ一年も経たない間に亡くなられたという事です。

お墓の周りは田畑があり墓地の入り口近くの立派な自然石に 「吉田石松翁の墓 人権の神ここに眠る」 と刻まれ裏にはそのいきさつが刻まれていました。

歌手の故村田英夫さんが吉田石松翁を背負って歩かれたという土手もすぐ前にありました。

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